マイケル・ジョーダンのワシントン・ウィザーズ時代の凄さと成績を振り返る
NBAの歴史上、最も影響を与え、最高の選手と評価される「マイケル・ジョーダン」。
マイケル・ジョーダンといえば、シカゴ・ブルズにドラフト3位で入団し、2回の3連覇(スリーピート)をシカゴ・ブルズにもたらし、背番号23番もシカゴ・ブルズの永久欠番になっています。
マイケル・ジョーダンといえばシカゴ・ブルズ、そうイメージする方がほとんどです。
シカゴ・ブルズ時代の栄光や、実績、ハイライトはご存じの方も多いのですが、シカゴ・ブルズで2度目の引退をした後、ワシントン・ウィザーズで復帰し、2シーズンを過ごして引退。
このワシントン・ウィザーズ時代のマイケル・ジョーダンは、ブランクや年齢もあり、シカゴ・ブルズ時代と比較すると衰えたと感じた方も多かったと思います。
しかし、このワシントン・ウィザーズ時代のマイケル・ジョーダンには凄いところが非常にたくさんあります。
今回は、マイケル・ジョーダンのワシントン・ウィザーズ時代の凄さと成績を振り返っていきます。
マイケル・ジョーダンとは
まずはシカゴ・ブルズ時代のマイケル・ジョーダンの凄さを簡単におさらいします。
冒頭でもお話ししましたが、マイケル・ジョーダンはNBA史上最高の選手(通称 G.O.A.T)と評価されています。
・シーズンMVP 5回
・優勝 6回(3連覇を2回達成)
・ファイナルMVP 6回
・得点王 10回(7年連続含む)
・シーズン平均得点 歴代1位
・プレイオフ平均得点 歴代1位
マイケル・ジョーダがウィザーズに復帰した理由
引退して2年後の2000年、マイケル・ジョーダンはワシントン・ウィザーズのオーナー兼バスケットボール運営部門の社長となっていた。
選手の人事権を持ち、ドアマット(負け癖のついた)チームの再建の使命を背負ったマイケル・ジョーダン。
中々勝てないチームへの苛立ちと、2000年に復帰をしたNHL選手のマリオ・ルミューに刺激を受けたマイケル・ジョーダンが選択した答えは、ワシントン・ウィザーズの選手として、38歳で現役復帰。
自らコートに立ち、チームをプレイオフへ導く事を決意しました。
ワシントン・ウィザーズ時代のマイケル・ジョーダンの成績
まずはワシントン・ウィザーズ時代のマイケル・ジョーダンの成績を見てみましょう。
シーズン | 年齢 | GP | GS | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | PPG |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2001–02 | 38-39歳 | 60 | 53 | 34.9 | .416 | .189 | .790 | 5.7 | 5.2 | 1.4 | .4 | 22.9 |
2002–03 | 39-40歳 | 82 | 67 | 37.0 | .445 | .291 | .821 | 6.1 | 3.8 | 1.5 | .5 | 20.0 |
この成績を踏まえて、ワシントン・ウィザーズ時代のマイケル・ジョーダンの凄さを解説していきます。
ワシントン・ウィザーズ時代のマイケル・ジョーダンの凄さ
ワシントン・ウィザーズ時代のマイケル・ジョーダンのエピソード、同じ年齢でのスタッツの比較をご覧下さい。
その1:徐骨を骨折して調整不足だった
2001年の夏、1998年の引退から3年間のブランクがあったマイケルジョーダンは、ワシントンウィザーズへの復帰に向けて猛特訓していました。
3年のブランクがあり、復帰を決断してからトレーニングを再開し、10月後半のシーズンスタートでの復帰計画は、猛特訓をしても本来はギリギリの復帰スケジュールです。
そんな猛特訓に励んでいたマイケル・ジョーダン。
練習試合で、対戦相手のロン・アーティストとの接触で、徐骨を骨折。
それにより、3ヶ月間トレーニングを中断しています。
「でも、そうやってプロ選手を交えて練習試合をする機会をつくってくれたのは、毎日ジムに来ていたあのマイケル・ジョーダンだった。そのときはちょうど彼が2度目の引退から復帰し、次のシーズンからはワシントン ウィザーズでプレーすることが公表されたばかりだった。その夏、彼はシカゴで猛特訓をしているころだったよ。ジョーダンは僕らにとって特別な存在だった。彼は常にトップレベルでプレーをしていて、あの夏にみせたプレーを見る限り、彼が翌年のMVPを獲るんじゃないかと思ったよ」「僕はジョーダンと対戦するとき、彼から決して目を離さないようにしていた。彼は僕がジムに来ることを歓迎してくれていた。そして僕に“若い頃に君と対戦したかった”なんて言ってくれたこともあったんだ。彼の言葉が僕の励みになった。あの頃のジョーダンも最高にうまくて、圧倒的な存在感を放っていたよ。ジョーダンはいつも全力を尽くしていて、彼との練習試合が一番厳しかったね。ジョーダンとプレーできたことで僕は成長できたんだ」「だから僕は、ジョーダンの肋骨を折ったときには激しく落ち込んだ」「そのケガでジョーダンはプレーから3か月離脱したけど、復帰後、1試合平均22.9点を上げた。あの年齢では驚異的な成績だよ。もしケガをしてなかったら、ジョーダンはどんな一年を過ごしていただろう。想像するだけで、罪悪感でいっぱいになった。もし、あのときケガをしていなかったら、平均30点か35点を決めていたに違いないと思うんだ」引用元:The Sporting News
徐骨を骨折したのが夏なので、7月と仮定したとしても、トレーニング再開は10月です。
そして復帰するワシントン・ウィザーズのシーズン初戦は10月30日です。
3年間のブランクから、満足のいくトレーニングが出来ていない状態で復帰して、39歳になる年齢で平均22.9得点を叩き出しています。
ロン・アーティストの言葉通り、骨折していなかったら、11度目の得点王、公約通りのプレイオフ進出が出来たように感じます。
その2:怪我前までは得点ランキング上位だった
夏の徐骨骨折によりトレーニング不足だったマイケル・ジョーダンは、開幕から試合を重ねる毎に調子をあげて行った。
開幕戦こそ19得点だったが、12月29日のシャーロット・ホーネッツ戦では51得点を記録。
徐々に、本来の姿を取り戻していく。
48試合目のサクラメント・キングス戦で味方との接触で膝を怪我していまい、手術に踏み切った事でその後は少しスタッツを落としてしまったが、怪我をする前までのシーズンスタッツ、そして怪我をする直前20試合のスタッツはこちら。
2001-02(38歳-39歳) | GP | PPG | FG% | RPG | APG |
---|---|---|---|---|---|
怪我をする前のシーズンスタッツ | 47 | 25.1 | 6.2 | 5.3 | 1.5 |
怪我をする直前20試合のスタッツ | 20 | 27.5 | 6.4 | 5.2 | 1.3 |
このシーズンの最終的な得点王はアレン・アイバーソン31.4得点、2位はシャキール・オニール27.2得点、3位はポール・ピアース26.1得点。
もし、夏の徐骨骨折、シーズン中の膝の怪我がなければ本当に得点王も取れたのではないかと思う。
またチームの47試合目の勝敗は26勝21敗。
前年の成績が19勝63敗のチームがここまで生き返ったのは、マイケル・ジョーダンの復帰によるものだ。
ウィザーズ時代のマイケル・ジョーダンのハイライトシーン
マイケル・ジョーダンのハイライトは身体能力や得点能力抜群のブルズ時代の映像ばかりだが、年齢を重ね、怪我と闘っていたワシントン・ウィザーズ時代のマイケル・ジョーダンのハイライトは心を奪われるシーンがいくつもある。
3つのハイライトは、是非見ておいて欲しい。
古巣ブルズにかまされたブロックからの両手ブロック
まずはこちらのハイライトシーン。
古巣シカゴ・ブルズ戦でマイケル・ジョーダンが得意のフェイド・アウェイシュートをブロックされてしまいます。
マイケル・ジョーダンも衰えたな、と誰もが感じた直後
ブロックされたボールをブルズの選手が速攻でレイアップを試みたその時、後ろから黒い影が忍び寄ります。
そう、ブロックをされたマイケル・ジョーダン。
そしてマイケル・ジョーダンはブロックされた恨みを晴らすかのように、ブルズの選手のレイアップをブロック。
しかも、両手で。
ブロックのハイライトは沢山ありますが、こんなに見事にキャッチしてしまうシーンは見た事ありません。
むしろ、なんでマイケル・ジョーダンはジャンプしづらい両手で取りにいったんでしょうか。
奪い取るという意志が、つい出てしまった、そんなブロックです。
連続2桁記録が止まった6得点からの51得点
2001年12月27日、マイケル・ジョーダンはインディアナ・ペイサーズでキャリア最低の6得点を記録してしまいます。
キャリア最低得点を記録してしまっただけではなく866試合連続で記録していた、2桁得点記録も途絶えてしまいました。
トレーニング不足、年齢による衰え、3年間のブランク
やはりマイケル・ジョーダンは神ではなくなってしまった。
そう感じたファンや選手は多かったのではないでしょうか。
ただ、それで終わらないのがマイケル・ジョーダン。
マイケル・ジョーダンの負けず嫌いと闘争本能が目を覚ましてしまいました。
2日後のシャーロット・ホーネッツ戦、51得点を記録します。
NBA史上、50得点を記録した最高年齢を更新します。
そしてさらに2日後、45得点も記録しています。
結局、この3試合で102得点(平均34得点)
そこにはシカゴ・ブルズ時代を凌ぐマイケル・ジョーダンの姿がいました。
最後のオールスターで沈めた逆転ショット
2002-03シーズンでの引退を表明していたマイケル・ジョーダン。
2003年に開催されたオールスターゲームは、マイケル・ジョーダン最後のオールスターでした。
選手やファンも、マイケル・ジョーダンの為のオールスターというムードがあり
全員が「何か特別な試合になって欲しい」そんな想いがあったように感じます。
そんな最後のオールスター、マイケル・ジョーダンはその想いに答えます。
同点で迎えた延長戦残り9.6秒
司令塔のジャイソン・キッドのパスを右サイドで受け取るマイケル・ジョーダン。
マークにつく相手は自分よりも大きいショーン・マリオン。
一度左に向い、すぐにロールし、右サイドラインへ数回ドリブルを付く。
ショーン・マリオンのマークは全く振り切れていない。
そのまま得意のフェイド・アウェイに持ち込むマイケル・ジョーダン。
ブロックされてもおかしくない、ギリギリで放つシュート。
ブロックをかわす為に、いつもより高い弾道で放たれたボールは
美しい弧を描き、リングに吸い込まれる。
喜びに満ち溢れる、ファンと味方の選手たち。
どこか、ライバルである相手チームの選手もこう思ったはずだ。
「マイケル・ジョーダン最後のオールスターは特別な試合になった。」
この後、コービー・ブライアントの3ポイントシュートに、ジャメイン・オニールがファウルをしてしまい、同点となり、再延長戦で逆転負けとなってしまうが、それもまた。
勝敗も大事だが、マイケル・ジョーダンが特別な試合を作り、全員の気持ちに応えてくれた。
一生忘れないオールスターゲームになったと思う。
まとめ:【マイケルジョーダン】ワシントン・ウィザーズ時代の凄さと成績を振り返る
今回の記事では、マイケル・ジョーダンのワシントン・ウィザーズ時代の凄さと成績を振り返りました。
ブロックも、オールスターもリアルタイムで見ていたので非常に懐かしく思います。
夏の徐骨骨折がなければ、と今でも思いますが
ワシントン・ウィザーズ時代のマイケル・ジョーダンはブランク、年齢による衰え、トレーニング不足、怪我との戦い、戦力不足のチームなどの背景の中、全世界の気持ちに応えていく姿を見ていると、シカゴ・ブルズ時代では感じる事が出来ない想いが芽生えてきます。
そんなワシントンウィザーズ時代のマイケルジョーダンを皆さんも好きになってくれたら嬉しいです。
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